タルコフスキーとホドロフスキーの区別がつかなかったので。

アンドレイ・タルコフスキーノスタルジア』を見た。なぜこれを見ることにしたのかというと、私がホドロフスキータルコフスキーの違いがわからない間抜けだったからで、ツタヤに行って、あっ、この監督の新作今度上映されるよね~と思ってタルコフスキーノスタルジア』を手に取ったというわけだった。タルコフスキーはもうすでに死んでいる。ホドロフスキーのほうはまだ生きてる。そして映画自体は、レンタルする際に懸念していた通り私にはチンプンカンプンで、その時は「やばい、今度の新作は見にいくの辞めといたほうが身のためかも」そう考えていた。もちろん「ホドロフ」と「タルコフ」が同じ値をとる私の思考能力では、この映画の色々な要素もどれもこれも一緒くたになってしまい、チンプンカンプンも当然のこと。もちろんホドロフスキーの作品も理解できないと、そういう事になるだろう。

あの狂っている人が部屋の中にあって全く用をなしていない扉を律儀に開けて歩いているところ、壁には大きく1+1=1と書いてあって面白かった。雨漏りはするわ犬はいなくなるわ壁には1+1=1とか書いてあるわドアは何の役にも立ってないわ窓際には蜘蛛の巣が張っているわ奥さんや子供には逃げられるわ自転車こいでたらおかしな外国人に絡まれるわ温泉に入っている人たちにバカにされるわ、少なくとも彼の世界は確かに終わっていて、焼身自殺もやむなしか。

もちろん本気でそんな感想を抱いたわけではなく、独特のスタイルや美学を感じさせる映像はとても良かった。建物の縦と横の線、直角に引かれた構図が頻出し、全く動かないかほとんど動きを止めたような人物達が風景のように立っている。アンドレイらが宿泊するホテルの部屋、ライトをつけたり窓を開けたり洗面所に行ったり本を開いたりして、カメラと人物が部屋を歩き回り、その後のシーンでその部屋の全体が映し出される。アンドレイがベッドで眠気を催し横になるとカメラが非常にゆっくりと彼に接近していく。突然犬が出てくる。犬はアンドレイの傍に寝そべり、アンドレイの手がその犬の毛を撫でる。この場面は見ていてとても惹きつけられるものがあった。外では雨が降っていたのも良い。何というかあのシーンがこれからこの映画の中で彼に起こる出来事の入口だったかのように感じられるのだ。

そしてアンドレイが最終的に帰っていく場所はロシアではなく、この地で度々彼の脳裏に浮かんできた故郷らしき所だ。そこには彼の案内人である犬もいて、聖堂の中に守られてもいるのだけど、あの家族や馬は一体どこに行ったのだろうか。

あとは疑問点がいっぱい。

アンドレイが調べていた音楽家の事はどうなったのか?彼が執着していた聖母マリアと幻想の中現れたマリアという女性の関係は?彼女はアンドレイの家族なのか?温泉に浸かっていた将軍達御一行は何者か?中国の音楽が何とかと言っていたし、むしろ調査対象だった音楽家と関わりのある人物?あの狂った人(名前は忘れた)に火をつけるよう煽っていたのは?マリアがカーテンを開けた時にそこにいた鳩は?モノクロの家族が家をバックに全員集合の場面で微動だにしない馬、首のところ変じゃない?ゴミだらけの街路のシーンで鏡のついた扉開けた時、ドメニコ(名前を調べた)が一瞬映ったのはなぜ?それにあそこはどこ?エウジェニアはなぜ教会で跪く事が出来なかったの?なぜビニールシートを貼っておく必要があるほど雨漏りが酷いところの真下にベッドを置くの?アンジェラって女の子は何?その時アンドレはなぜ呑んだくれてたの?どうして詩集を焼いたの?何でもかんでも意味を求めるべきではないけれど、こういった完璧主義的作品を作る作家においてはとりわけそうだけど、何かが画面に映るのはそれが置かれたからで、何か音がするのはそれが鳴らされたり録音されたからで、作品の中に何かがあるというのは作家が、あるいは作品自身がそれがそこにある事を望んだからだ。そういう考え方や作り方が全てではないと思うし、個々の要素がバラバラのまま、無意味なままでも全体としてどういうわけか素晴らしいというのもありえるかもしれないけど、多分この監督の場合は特に理由もなくそうした、という事はあまりなさそうなそんな気がした。