クラウス・メルツ『ヤーコプは眠っている』、ジム・ジャームッシュ『パターソン』

クラウス・メルツ『ヤーコプは眠っている』を読んだ。何だかとても感動してしまった。

その瞬間、私は父の言葉の向こうに若い二人のシルエットが光り輝くのを見た。

そしてこの物語の中で語り手が回想する過去の思い出から、読者は彼らの家族、「太陽」と呼ばれた水頭症の弟、勘当されてアラスカに行き、飛行機事故で亡くなったフランツおじさん、パン屋を営みのちには電気の検針?のような仕事をすることになった父、思い鬱病を患った母、といった人物たちのシルエットが浮かび上がるのを見る。

それらの姿はシルエットであるゆえに、読者は彼らの顔や姿をはっきりと思い浮かべることができない。全ては過ぎ去ってしまい、彼の家族は今ではもう誰も残っていない。その輪郭しか見えない人物や彼らの故郷の風景、それをはっきりと目にしたい、そんな欲望、あるいは願いを抱きながら読み進める。しかしそれを見ることは叶わず、ここには接近不能な物語が、決して私のものにはならない物語があるだけだ。

最後は

それは私のものだ。

という一文で終わっている。まさしくこの物語は彼のものだ。


その後、新宿武蔵野館で『パターソン』。前の座席に座った人の頭がひょっこり突き出して、右に左に揺れていた。映画が始まると登場人物たちは英語を話し、私はその言葉の意味が分からない。字幕が出ている辺りでは頭部のシルエットがゆらゆらしていた。私はすっかりイライラしてしまって、映画の印象もそのイライラで歪んでしまった。いたるところに出現する双子。パターソンとパターソンとパターソン。詩を書き溜めたノートとそのコピー。パターソンの奥さんは、家中をモノクロのパターンで埋め尽くしてゆく。彼女のカップケーキのように。奥さんはモノクロ映画の女優と似ている。チェスの駒。パターソンはガレージのついた一軒家に住み、車を持ち、ブルドックを飼っていて餌代がかさむ。奥さんは働いていないように見える。彼は毎日犬の散歩がてら行きつけのバーに行き、ビールを飲む。200か300ドルのギターを買う事を渋るような生活だろうか。葬式帰りのような格好の日本人があらわれる。何が「アーハ」なんだ。映画の中で3人の詩人が登場する。日本人旅行者、コインランドリーのラッパー、10歳くらいの女の子。彼らはみな自分のことを「詩人」という。パターソンは「あなたも詩人ですか」という問いかけに「違う」と答える。彼はドライバーだ。ドライバーのドライバー。彼のノートブックはズタボロになった。というか犬は彼のノートだけをズタボロにした。恋人に振られた黒人の男の子もズタボロだった。もしかしたらバーのマスターもチェスの大会の後、ズタボロにされたかもしれない。そんな映画を字幕が見えない不快感を下敷きにしながら観た。だから私はこの映画を見ている間、一瞬だって幸せでなかった。新宿武蔵野館には二度と行かない。