田中功起『Provisional Studies: Workshop #7 How to live together, and sharing the unknown』についての感想でも何でもないただの雑文

何人かの人達がガラス張りの部屋の中を歩き回っている。現代美術家・映像作家の田中功起が現在作品を展示している展覧会「ミュンスター彫刻プロジェクト」、ドイツのミュンスターにて行われているその展覧会で、彼の映像作品の展示に使用されていた機材、プロジェクターとモニターが盗難にあった。そのおかげで映像作品がインターネット上で見れることがわかり、私としては作品が見れて嬉しい。

vimeopro.com



ネット上で見れるのは「Provisional Studies: Workshop #7 How to live together, and sharing the unknown」という作品。しかし全編英語で、字幕も無いためそこで話されている内容はほとんど分からない。英語ができないためにアクセスできない情報がインターネット上にはたくさんあって、それは他の外国語でも同様だけれど、やはりまず英語がわからないとどうしようもない。これはもったいない。

9人の参加者が9日間のワークショップ等を体験する、その模様を撮影したドキュメンタリー。初日の内容は参加者全員でランチを作り、それを食べるものというだった。参加者たちは一見して人種の異なる人たち。彼らは皆今はドイツに住んでいる人なのかもしれないし、外見的にドイツ人っぽくなくてもドイツで生まれ育った人かもしれない。それはよく分からない。どんな料理を作るか、レシピの本?が渡され、第二次世界大戦時の料理がなんとかかんとかと言っていた。参加者の中にはヴェジタリアンの人がいて、野菜のスープを作ることになる。そのスープをドイツ語で何というか分からず「アラブ語では○○」という事を、○○の部分は聞き取れなかったけれど、一人の女性が――後の会話で彼女はパレスチナ人ということが分かった、私がまるきり聞き間違いや勘違いをしていなければ――言っていた。スープが出来上がり、みんなで食べる。アフリカ系の女性が、他の人からの質問に促されてだと思うが、何か話していた。人種差別にかかわる問題だったと思う。差別の事を話したいというよりは、彼女自身の事や家族の事を話すときには、どうしてもその話題に触れる事になる。また、あの時あのメンバーで話しをするとき、その状況の中で彼女に期待された役割だったのではないだろうか。

そして2日目、インタビューをする、という内容。私はてっきり参加者同士でお互いの事を知るためにインタビューをしあうものだと思っていた。その辺りの説明も最初になされていたのかもしれないが、私は英語はあまり分からない。参加者たちはインタビュアーと撮影者に分かれてそれを行う。具体的にどのようにするか、その方法は彼らに任された。椅子を使うかボールを使うか。カメラはどうするのか。誰かの意見は通り、別の誰かの意見は通らない。それらの決定は会話の流れの中で次第に決まってゆく。通らなかった意見は、明確に却下されるというよりは、いつの間にかフェードアウトするように退けられるようだ、と思った。突然見知らぬ人が現れた。その人がインタビューを受ける人だ。シリアの人。グローバライゼーションについての内容だったか。今はその次の動画を見終わったところで、すでにインタビューの動画の内容はあいまいにしか覚えていない。見ているときからまったくわかっていなかったとも言える。会話は全て英語で話されていたからだ。時々ドイツ語が混じった。「英語でなんていうかわからない」という時にドイツ語が話される事があったが、私はドイツ語はなおさら分からない。グローバライゼーションについてシリアの人が話す。参加者たちはそれを聞く。彼らはその同じ話題を、それぞれ違った形で聞き、感じるはずだ。パレスチナ人として、どこの国かは分からないけれどとにかくアラブ系の人として、アフリカ人として、ドイツ人として、フランス人として。でもそれは彼らの見た目から私が想像したことで、実際にどうだったのかは分からない。

ところで映像はとても綺麗だ。そしてカメラがゆっくりと動き、参加者たちの表情を捉え、時折スタッフが映りこみ、それだけでも割と見ていられる。「DAY 3*」という動画はなぜか実際にはDAY 4で4日目には髪の毛のカールした背の高い男性が何らかのワークショップを先導する。全員で部屋の中を歩き回り、外に出て、階段を降り地下を歩き、駐車場のようなところでダンスのような事をしていた。お互いをリスペクトしながら、他の参加者の動きに注意を払い、ゆっくりと、ただし輪を作ってぐるぐる回る事のないように気をつけて。時折、彼らの動きは作為的に見える。部屋に戻り食事を済ませると、世の中の重大問題についての話し合い。それぞれが王様や王女様だと思って。それぞれがそれらの問題に題して、自分が最善と思う決断を下してください。一人の男性参加者がネット上の攻撃的表現や差別的表現について、「私なら、そのような言葉の使用を禁止する」というような事を言ったのだったと思う。それに対して、言葉を禁止しても意味が無いというような意見が出ると、主催の男性が「意見を言うのではなく、新しい決定を下して」というような事を言う。ここにいる全員がそれぞれ王様や王女さまなのだから、それぞれの決定はお互い覆す事は出来ない。可能なのは新たな決定を付け加えて、その内容に変更を加える事だけ、という事らしい。この議論に加わらない、あるいは加われない参加者や明らかに退屈している参加者、積極的に発言しようとする参加者。

DAY 5、ドイツの難民問題についての講義を聴くという内容のようだ。しかし時間が無いので今日はここまで、残りは後日、気が向いたら見るだろう。ところで今読んでいるテジュ・コール『オープン・シティ』で、アラブ系の登場人物がテロの事やイスラエルパレスチナの問題について話をしている場面を読んでいたところで、その人物と会話をしている主人公のジュリアスはナイジェリア人とドイツ人のハーフだった。場所はブリュッセルだったか。そしてこの映像作品で女性の一人がパレスチナ人で、その他にドイツ人やアフリカ系の人がいて、中東系の人もいて、話しをしている。それでこの映像作品が、まるで読んでいた小説の続きのように感じられて、その事がすこし面白かった。

中断
再開

あらためてDAY 5。部屋は暗い。そしてとても静かな場所で、参加者の内2名が白い布を持ち、そこにOHPの映像が投影される。参加者たちの表情はすばらしい。すばらしいというのは変だけれど、これまでに無く真剣な表情をしている。部屋の暗さの聖もあるのかもしれない。この日の彼らの表情にはとても私を惹きつけるものがある。参加者の誰かが発言すると、みんなそれを静かに聴く。DAY 4でほとんど発言をしなかった、アフリカ系の女性が、熱心に意見を述べていた。難民問題について、議論するだけではなく行動することが必要。ほんの小さなことでも良い、行動を起こす力が私たちにはある。そのような事をいっていたと思う。思うに、アフリカンとして生きるという事、とりわけヨーロッパやアメリカで生きるという事は、それだけで様々な歴史や問題、人種差別や飢餓といった問題を背負う事を余儀なくされる事なのではないだろうか。彼女が特別そういった問題に関心のある個人だった可能性もあるけれど。彼女がその場所で語る様子は、単に自分の意見を言うという以上に、自身の義務や役割をはたす、という目的を持ったものにも見える。状況や歴史がある人に役割を押し付ける事がある。その時その人は自身のアイデンティティーを人質に取られている。もし役割や義務をはたさなければ、その人はアイデンティティーを失う。あの場所で彼女はどうしても「行動しなければいけない」と言わなければならなかったのだと思う。凄い映像だった。

DAY 6にこれから行うインタビュー、参加者同士でのインタビューについてのレクチャーというのか説明なのかよく分からないけれど、イントロダクションがあり、次の動画は「DAY 6,7,8」となっている。AパートとBパートに分かれていて時間が無いので今日はAパートだけを見た。突然、映画のように見える。群像劇だ。群像劇では様々な人物が登場して、別々のエピソードが展開されたり、あるいは同じ状況を様々な人物の視点から見ていったりするのだと思う、そういった場合が多いように思うと言ったほうが良いか。そして劇のクライマックスでそれまでの個々の出来事が1つにまとまるような何かしらの仕掛けが用意されている事が多いと思う。例えば、登場人物全員の所に、空から大量のカエルが降ってくるとか、一台の馬車が、登場人物たちの居る街を横切っていく場面が描かれるとか。私が今見ているこの群像劇においては、その仕掛けがまず初めに存在する。つまり、登場人物全員がある美術家の映像作品のためのワークショップに参加する。そしてこのインタビューで語られる個々人の物語と合間に挿入される映像によって、「ワークショップの状況」から、「個々の参加者」へと主役が交代する。主役というのは違うかもしれないが、一人一人の人物が前景に出てくる。とても面白い。相変わらず話されている内容はたいてい分からない。英語だから。明日続きを見るのが楽しみ。

中断
再開

Bパート。もう特に言う事はないけれど、とても良い。

DAY 9は議論が白熱して、しかしその様子を見ていて悲しい気分になる。彼らは「Dignity」について議論している。なぜその話題になったのかよくわからないけれど。Dignityは誰しもが持っているものなのか。DignityとPride同じ事を意味するのか。表面的にはDignityという単語が意味するものをどう捉えるかという事について議論しているのだけれど、その議論にアメリカの黒人奴隷たちの話が絡まって、どうにも埋まらない溝ができてしまう。ある人がDignityは誰にでもあると言い、別の人が奴隷たちにはDignityは無かったと言うとき、その単語が切り取る意味の範囲が微妙に異なっていて、そして彼女は自身の考えるDignityの意味に変更を加える事を許容しない。そして彼女は表面的にはDignityとはこういうものの事だ、と話しているように見えて、実際には奴隷たちがどのように生きたかを理解する事を求めている。そしてその後に、他者を理解する事は可能か、という問いが提示される。何を持って他者を理解したという事が出来るのか、どこまで理解すれば本当にわかった事になるのか。他者を理解するというのが、究極的にはその他者そのものになる事であるならば、それは不可能だ。このプロジェクトのタイトルはHow to live togetherという文字があるけれど、それはHow to understand each otherではないので、他者が理解可能かどうかというのはまあどうでもよい。いやむしろ理解不可能だからこそ、このタイトルなのかもしれない。

この人はそのうち映画を撮り始めそうだ、と思ったりした。