エストニアの端っこのほう

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「Sõrve lighthouse」灯台が見える。ソルヴェ灯台エストニア、サーレマー島南西の先端に建っていて、あれは1960年に建てかえられたものだ。この場所に最初に灯台が建てられたのは1646年の事なのだそうだ。何度も建て替えを経た後、20世紀初めごろには四角形の白い灯台が建っていた。

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灯台の隣には、現在ではビジターセンターとなっている建物が見える。この灯台は1944年に全壊してしまった。そして1949年に再建されたときは8角形になっていた。

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現在ビジターセンターとして使用されている建物には子供たちが遊べる部屋や、灯台の歴史資料やエストニア各地の灯台模型などがある。

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2012年ごろにビジターセンターとして作り直される以前、この建物はどのように使われていたのかはよくわからなかった。灯台の光をガイドに船が行き来する。この場所で、形は変わっても350年以上の間、船乗りたちのため火を灯してきた。現在はLEDに変わっている。どうやら灯台用のLEDライトが存在するらしく、ソルヴェ灯台の明かりがLEDに変わったのは2014年の事だった。だから現在は火を灯すのではなくライトを点ける、どちらにしても船乗りの助けにはなる。岬には灯台があり、砂漠にはミナレット。バラサグンに存在したブラナの塔、いや逆だ、ブラナの塔が現在も存在し(しかし高さは半分になっている)、バラサグンはすでに歴史上の都市になっていた。それは現在のキルギスタンにあり、シルクロードを行くキャラバンの助けになっていたはずだ。ブラナの塔はもともとは45mの高さだったか。ソルヴェの塔台は52m。建っている場所と時代が違っていても、それらは同じ形をしている。

駐車場の隣にはレストランがある。どのようなものが提供されているのかは断片的にしかわからないが、メニューは4ヶ国語で書かれている。

BAKED FISH
What is today's catch? Ask an attendant!

 日本なら本日の焼き魚といったところか。Today's catch、今日採れた魚は何ですか。どうという事はないけれど、どことなく微笑ましい。月並みな感想だが「どの国も同じだなぁ」。だけどそれで少しここの人たちの事がわかったような気がしてきてしまう。

ここから最終的にはサルメ村まで行く予定だ。とは言っても実際にはグーグルストリートビューを眺めて、気になることことがあれば検索して調べる、というだけ。ここサーレ県の紋章は、

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ヴァイキングの船だ。ここにはアイスランドのレイフ・エリクソンのような有名で英雄的な人物はいないかもしれないし、その生活の痕跡もわずかだが、それでも千数百年前、この場所で生活していた人たちは確かにヴァイキングだった。

エストニアは世界で最も政府の電子化が進んだ国なのだそうだ。インターネットの記事で見かけた。全ての行政サービスのうち99%はネット上で手続きが完結する。そして現在ITビジネスの企業家たちから注目をあびている国、それがエストニアだった。このソルヴェ半島(wikipediaではソールべ半島となっていたが、そうすると灯台もソールべ灯台ということになる)の景色を見ていても、タリンの旧市街を眺めても見えてこない部分がある。森と海に囲まれて、家々もまばらにしかないこの場所でも、住んでいる人たちは様々な行政手続きをインターネット経由で済ませているのだろうか。道路が未舗装で家が古ければ、そこに住む人たちは貧しいに違いないと、そういった偏見が私の中にあった。自身の限られた視点、経験の範疇でしか物事を考えられない。

灯台を離れてゆく。まずは半島の西側を進みJämajaに向かう。読み方はヤマヤ、ヤーマヤだろうか、わからない。そこにはひっそりとした可愛らしい形の教会がある。小さな木造のバス停を通り抜けると左手にはミュージアムが、ここで使われた兵器等の展示がされているようだが、道路からはよく見えない。そう、この場所も第二次世界大戦の時には戦場になり、ソ連軍とドイツ軍の戦闘があった。

ムーンズント上陸作戦。バルト海攻勢と呼ばれる一連の作戦の中のひとつ。ソ連軍(正しくはソビエト赤軍と呼ぶようだ)は1944年10月1日にサーレマー島北東部に上陸、1週間ほどでソルヴェ半島までドイツ軍を押し出し、同年11月24日にドイツ軍はサーレマー島から撤退する事となった。あの四角形の灯台が全壊したのはこの作戦のさなかの事だったのだろうか。

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ヨーロッパの歴史は、どこを調べても第二次世界大戦に行き着く。ヨーロッパ各地の歴史の中で全員集合の合流地点。

ボラーニョの小説『第三帝国』では主人公のウドと「火傷」と呼ばれる人物がボードゲーム第二次世界大戦をやり直す。物語の舞台はスペインだったと思う。ウドが枢軸国側で火傷が連合国側だったはずだ。駆け出しの作家だったジェロームは、作家として成長するため(他の理由もあったかもしれないが)、戦争に参加した。いや、志願したのではなく徴兵されたのだったか。ともかくジェロームは1944年6月6日にヨーロッパの戦場に立った。ノルマンディー上陸作戦だ。ウドと火傷のゲームは1939年からスタートする。ウドはそのゲームの世界チャンピオンだった。ゲームは枢軸国優勢で進んでいった。ジェロームも戦場をヨーロッパの奥地へ向けて進んでいった。彼の所属していたアメリカ第四師団はドイツの森の中へ入っていく。彼は第四師団の第十二歩兵連隊に所属していた。次第に勝利に近づきながらも、戦闘は過酷なものになってゆく。ヒュルトゲンの森での戦闘は44年の9月19日から翌45年の2月10日まで続いた。アメリカ軍とドイツ軍が森の中で壮絶な殺し合いをしている間に、バルト海ではソ連軍の広範囲に渡る作戦が実行され、サーレマー島はドイツから奪還され、ソルヴェの灯台は破壊され、ドイツはエストニアリトアニアから撤退した。ウドの状況も次第に悪くなる。火傷がゲームをリードし始め、ウドのドイツ軍も各地で撤退を余儀なくされる。彼らのゲームはどこまで続いたのだろうか。1943年の春か夏までだったと思う。だから彼らのゲームはノルマンディー上陸作戦もヒュルトゲンの森の戦いも、バルト海攻勢も経験しないまま(しかしそれと似たような駒の動きはあったのかもしれない)終結したのだろう。バルト海攻勢の後もソ連軍は侵攻を続け、彼らの最終到達地点はベルリンだった。wikipediaの「ベルリンの戦い」では、「ベルリンは地獄と化していた」という、この戦場を生き残ったドイツ人の記述が紹介されている。ジェロームもまた最後の場所にたどり着く。ベルリンの戦いと時を同じくして、彼の所属する第十二歩兵連隊はドイツ南部、バイエルン州のカウフェリングに到着する。そこにはユダヤ人の強制収容所があった。彼が戦争から帰国した後に出版した小説は、猛烈な勢いで売れ、大勢の熱狂的なファンを生み出した。熱狂的なファンの一人であったマークは1980年12月8日、その本と拳銃を携えてニューヨークへ向かい、ジョン・レノンを撃ち殺した。

そうこうしている内にJämaja kirikだ。

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1864年に建てられ、現在も周辺の住人が使用している。教会前の道を海に向かって突き当りまで進むと墓地があった。毎週日曜日になると、すぐ近くにある停留所までバスに乗って、または車でこの小さな教会に集まるのだろう。椅子に腰掛け神父の説教を聴き、パイプオルガンが演奏され、聖歌を歌う。2015年にイタリアのバイカウント社の電子パイプオルガンを導入したようだ。塗装が一部剥がれていて、中古品か、誰かの寄付であろうそのオルガンは、恐らくSonusというシリーズのものだろう。4、5人の男性がそれを持ち上げ、狭い階段を上っていく。

www.youtube.com日本国内ではヤマハが販売を行っている。

昔のJämaja教会の画像。

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建物はまったく変わらないように見える。本当は屋根の塗装は今よりもっと鮮やかで、壁やドアの色は今とは違っていたのかもしれないけれど。周囲の木々だけが今よりもずっと小さい。もしかしたらこれらの木々は教会の建設とあわせてこの場所に植樹されたものなのかもしれない。人と木々と建物と、それぞれ違った年のとり方をする。

この辺りの民家は多くの場合、道路からは見えにくくなっている。道路と家の間に木々が立っていて、それがブラインド代わりとなっているようだ。だからストリートビューからだとどこに民家があるのかはわかりにくい。上空から航空写真だと家々の配置がよくわかる。道路から少し奥まったところに家が建っていて、その周りは森林に囲まれている事もあれば、開けた草原になっている事もあるし、いくつかの家が近くに集まっている場合もある。道の途中でクレッサーレの北にあるアングラ風車のような形をした蔵を持った家を見つけた。石造りの土台の上に木造の小屋、子供が書いた家の絵のような小屋が建っている。それは風車小屋ではなかったため、羽根車はついていない。半島の西岸よりの道路はLäätsaという村の南で東岸側を走る道路と合流する。Läätsaでは面白いものを見つけた。Holiday homesという宿泊施設は全面の壁に木の板が張られ、落ち着いた雰囲気の建物だ。敷地内にはプールもあるようだ。

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しかしこの場所、今私が見ている目の前にはコンクリートが剥き出しの廃墟があるだけだ。今私が見ている2011年6月のストリートビューにHoliday Homesは存在しない。私にはHoliday Homesが現在廃墟であるこの建物の未来の姿のように見える。実際その通りなのだが、つまりHoliday Homesがただの廃墟だった頃の過去の画像を見ているという感覚ではなく、今の私にとってはコンクリートの廃墟が現在だ。最後に立ち寄る予定のヴァイキング・バーガーでも同じ事が起こる。

後に宿泊施設となるその場所を後にして北に向かうと今回の最終到達地点サルメ村だ。2008年にヴァイキングの船の遺構が発見された。そこには一緒に人骨も見つかった。船葬墓というらしい。船を墓にするのはヴァイキングの文化だった。そしてこの船が造られた年代は西暦650年から700年。ヴァイキングたちががイングランドを襲撃し、歴史の表舞台に登場するよりも100年ほど前の時代だった。

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「ロングシップ」と呼ばれるヴァイキングの船。前後対称の形とクリンカービルトと呼ばれる建造方法が特徴だという。

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ヴァイキングたちはこのクリンカービルトで造られた船で10世紀ごろヨーロッパの広い地域に進出した。彼らが他国の船に打ち勝つ事が出来たのは、この船があったからだろう。しかしこのタイプの船が世界中に広がってゆく事はなく、造船方法としてはカーヴェルビルト、板を重ねずぴったりくっつけて船体を造るスタイルが主流になった。なぜだろう。いくつかの英語サイトをあいまいな読解力で読んだだけだが、クリンカーで作られた船は、カーヴェルのそれに比べて、板の重なりがある分外側の造りが頑丈になる。そのため船の骨組みを簡素化することが出来、どういうわけかその方が結果的に船の重量を軽く出来たのだろう。前後対称のヴァイキング船は前進と後退を区別する必要が無く、どの方向にも動きやすい。そして船体が軽く、しかも頑丈な板に守られたこの船は、乗組員が手漕ぎで操縦しながら戦っていたこの時代に、他国の船を機動力で圧倒することができた。そういうことだろうか。
その後の時代、帆船のサイズが大きくなるにつれ、船にはより丈夫な骨組みが必要になってゆく。クリンカービルトの船は骨組みを大きく、丈夫にしていくと元々の利点が失われてしまう。そしてスペインや地中海の国々でキャラックやカラベルと呼ばれる大型の帆船が建造されるようになり、ロングシップは次第に表舞台から姿を消していった。

サルメでは2017年8月18日から20日にかけて、サルメ・ヴァイキングマーケットというイベントが開催されるようだ。昨年に引き続き第2回目の開催(だと思う)となるヴァイキングマーケット。昨年は北欧各地から
何隻ものロングシップが集結し、物販やワークショップなどを数千人の来場者が訪れた。のだと思う。

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もうひとつサルメにはヴァイキング関係のものがある。ヴァイキング・バーガーだ。
2011年6月、その場所にはプレハブ小屋が3つ並んでおり、その前には何台かの乗用車が停まっている。3つ並んだうち、両側の2つはシャッターが降りていて、何かを、銅像とかを載せる台座のように見える。真ん中のプレハブには「MANGO」と描かれた看板が取り付けられOの文字は太陽のマークみたいになっている。
これもまたwikipedia情報なのだが、ヴァイキングのトレードマークといえる角の付いた兜は実際には古代ケルト人の身に着けていたもので、ヴァイキングたちはそのような兜をかぶる事はなかったそうだ。そしてこれがサルメのヴァイキング・バーガー。

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ハンバーガーに角の生えたロゴマークが見える。

サーレマー等にも生息しているハイランド種の牛にはステレオタイプ的ヴァイキングの兜を髣髴とさせる角が生えている。ロゴマークの角は、ヴァイキングのマークというよりは牛のマークなのかもしれない。

 

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