カリブの要塞から凶女のところまで

オールド・サン・フアンの西には広々とした原っぱがあって、空にはいくつかの凧が揚がっているのが見える。石造りのベンチには現地の人だろうか、サングラスをかけた夫婦がその景色を眺めている。隣には凧揚げの準備をしている親子。天気のいい日には大勢の人たちがこの草原で思い思いの時間を過ごす。海からの風を受けて凧が揚がっていく。草原の北には墓地があるのだが、ここから見えるのは壁だけだ。西の岬にある要塞から東の町まで壁が延びている。墓地は最初にスペイン人たちがこの地にやってきた時に作られたのだろうか。それならば要塞と同じく400~500年の歴史があることになる。古い墓地だ。原っぱの中央を一本の道が、まっすぐサン・フェリペ・デル・モロ要塞へと続いている。

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プエルトリコに最初のスペイン人が入植したのが1508年。サン・フアンの町は発展し、34年には現在の州知事官邸となっている城塞ラ・フォルタレサが、39年にはサン・フェリペ・デル・モロ要塞の建築が開始された。1634年にはサン・フアンの北東に小さな砦が建てられた。度重なる他国からの攻撃に対抗するため、サン・フアンの町と南米植民地を守るために、より強い防衛能力が必要だったのだろう。この砦は後に拡張され1780年頃サン・クリストバル要塞となった。また、島の東端にはサン・ジェロニモ要塞があり、これらの要塞に守られてサン・フアンの人々は生活していた。

サン・フェリペ・デル・モロ要塞、通称エル・モロ要塞。要塞内はどこも色褪せた、汚れた壁に囲まれている。400年前の人たちはどうやってこの要塞を建てたのだろう。この石はどこから。職人たちは毎日サン・フアンからこの島の突端までやってきて、建設作業を行い、夜になると町に帰っていったのだろうか。それとも、建設中の要塞内にとどまって、あるいは近くに彼らのためのキャンプや小屋を作って、もっぱらそこで暮らしたのだろうか。とはいえ、サン・フアンまでの距離もせいぜい数百メートル、毎日行き来したとしても、それほどの負担にはならないだろう。要塞には3つの旗が立っている。アメリカの旗。プエルトリコの、アメリカの一自治州としての旗、これはキューバの国旗と色使いが逆になっていて兄弟のよう。そして、1785年まで使用されていた旗。Burgundy Crossというこの古い旗。名前のとおりもともとはフランス東部のブルゴーニュで使われていた物なのだそうだ。なぜブルゴーニュ。私は歴史を知らない。当時のスペインは「スペイン・ハプスブルク家」が支配する時代だった。

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1469年にカスティーリャ王国のイサベルとアラゴン王国のフェルナンドが結婚。1474年にイサベルの兄エンリケ4世が亡くなると、イサベルとフェルナンドは共同でカスティーリャの王位に就いた。1479年にはフェルナンドの父フアン2世が没し、カスティーリャ-アラゴン連合王国が成立。ここからスペイン王国が始まる。同年、2人の間に女の子が生まれる。フアナと名づけれられたこの子供は1496年にブルゴーニュ公フィリップと結婚することとなる。ここにブルゴーニュ、つまりバーガンディ(Burgundy)が出てくる。

フアナは夫のフィリップが亡くなると、精神に不調をきたし、スペイン、トルデシリャスのサンタ・クララ修道院に幽閉されることとなる。

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フアナは「La Loca」と呼ばれた。

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レンガ壁の家々が並ぶ石畳の道、アロンソカスティージョソロルサノ通りを行く。突き当たりに、サンタ・クララ修道院の入り口が――ここがその正面口なのかどうかわからないが――ある。フアナはここの一角に幽閉され、その後の生涯をこの修道院で――退位を拒み続けたため――女王として過ごした。
襤褸をまとった狂気の女王。あるいは政治的な思惑のため幽閉生活を過ごすこととなった不幸な女性。後に神聖ローマ皇帝となった息子のカルロスは彼女の元を訪れ続けた。それは母親を愛していたためなのか、戦争に明け暮れる日々の、遠征帰りのつかの間の休息のためだったのか、あるいは女王を恐れていたからなのか。ともあれカルロスは1655年に母が亡くなると、その後自らもスペイン王と神聖ローマ皇帝を退位した。皇位、戦争、政治、そして母からも離れ、修道院に余生を過ごした。まるで母が死んでしまった以上、自身が背負ってきた重荷に耐える理由はもう無くなったとでも言うかのように。しかし通風の痛みだけは律儀にも彼に最後まで付き添ったのだった。

サンタ・クララ修道院ポルトガルにも存在する。コインブラのサンラ・クララ修道院。ここにはポルトガル王ディニス1世の妻、イザベルが埋葬されている。イザベルは敬虔なカトリックで貧しい人々や病人への奉仕にその身を捧げたのだった。彼女はその死後300年のほど後、1625年にローマ教皇により列聖された。サンタ・クララ修道院。一方には聖女が、もう一方には凶女が眠っている。