読書感想文 滝口悠生『茄子の輝き』_1

記憶は、当の出来事とは別のものなのだ。思い返す時点ですでに何らかの加工、編集が加えられている。何度も繰り返し思い出すうちに、そうではなかったものになってゆく。でも、主観的には、その記憶の出来事は確かに起こったことだと感じる。私がそれを見た、経験した。あの人はそのときそこにいた。記憶はしだいに薄れてもいく。そしてその事が自分でもわかる。ああ、忘れちゃったな。当時の記録、日記や写真を頼りに、それを繋ぎとめようとするも、記録自体によって記憶はまた変形を被る。記憶においてはその変形の度合いが距離だ。忘れなければ、どんな昔のことでもすぐそばにある。だけど、忘れてしまったら。記憶が遠ざかっていくのがわかる。写真をみて「あの時のままだ」と思う。だけどあの時のままではない。そうであれば、昔の写真はあんなに寂しい、胸苦しいような感覚をあたえはしないだろう。あの時に戻りたいわけではない。ただ、確かに経験したことや出来事が、何もかも少しずつ失われていく喪失感に抗いたい。何もかもが去って行く。私の人生が無かったことになる。残りものの半分は作り物。

こうやって、本を読みながら思いついたことを書き付けていって、最後まで読んだらその書籍に関する基本的な情報を付け加え読書感想文のかわりとする。そういうのはどうだろう、と思ったのだった。上に書かれた物は「思いついたこと」というよりは、どこかで聞きかじったことの未熟な再構成にすぎず、本当に自分で思いついたことなんて無いのだけれど、それでも構わない。自分自身で語ることの難しさ。自身の経験を利用して作品を作るということは良い。それはどんなにありふれた事であっても、オリジナルでありうるのだから。今は3つ目のお話しを読んでいる。家族のアルバムのような作品だと思う。写真のような。お別れのときの電車を見送るような。それらはもう過去になってしまい、ますます遠ざかって行きつつある、という感覚が流れている。

中断
再開

3つ目のお話しは『高田馬場の馬鹿』、面白いんだか面白くないんだかわからないけど、そんなタイトル。この本を短編集だと思っていたのだけど、ここでカルタ企画が再登場、連作短編だったのか!と驚く。ということはこの市瀬という男、別れた妻の写真を、昔の旅行先の風景写真とコラージュして、それを眺めて過ごしたりしている人物なのだな。この事は忘れないでおこう。本人はカルタ企画の後輩である「千絵ちゃん」に対する偏愛をおかしな事ではないと言い張っているが、ふむ。

カルタ企画とその仲間たちの再登場により『お茶の時間』で描かれた場所や人物が再度描かれなおされる。それを読む時の「あー、そうだったそうだった」という感覚。これが良い。あらかじめ自分も知っていることを確認しなおすような、すでにこの物語の場面が私の記憶にもなっている。「これはベンジャミンです」。そうだ、市瀬もこの植物を育てていたんだった。(どうでも良いけど「ベンジャミン」と聞くとクエンティン・コンプソンの弟を思い出すし、「そうだ」と書いた事でクエンティンの父親のことも思い出したのだった)
シュティフターの『水晶』を思い出す。その小説は簡単に言うと、小さな男の子と女の子が山で遭難するお話なのだが、小説の前半部分はほとんどお話しの舞台となるドイツだかどこかの情景描写に費やされる。後半になるとようやく子供たちが山の向こうの祖父母の家に出かける。帰り道、雪の降る夜、子供たちが家に帰る道のりが描写されると、読者にはその道が間違った道であることがすでにわかっている。読者はその場所を知っている。そしてその時の感覚が「あー、そうだったそうだった」に近い。違う。こちらは状況が状況だけにもっと深刻なものだった。だけどその「私はこれを知っている」という感じは似ている。

空いた時間にインターネットで著者のインタビューを読んだりしていたら、もともとこの人は「記憶」の扱い方や描き方に非常に意識的な方だった。このメモの最初に書いたものはだから、以前これらのインタビューなどを見たことがあって(それはこの著者が芥川賞を受賞したときのことだったと思う)、それが思い出されるというのでもなく表れたものだったのだろう。それならまあまるっきり見当違いのおかしなことを書いたことにはならないだろうから、まあいい。

『茄子の輝き』は急に入り組んだつくりになっていて、現在の市瀬と5年前の市瀬が混ざった状態で喋る。5年前の市瀬は先週の事や3年前の事を思い出し、喋ったりする。現在の市瀬は5年前の市瀬を思い出したりする。問題は現在の市瀬が「5年前の自分が3年前の出来事を回想している」場面を思い出しているのか、それとも時々5年前の市瀬自身が語り手として登場しているだけなのか、ということだ。これがどちらであるかはとても大事で、それによってお話しの内容は変わらないが、この作品での「記憶」の扱われ方や、市瀬という人物が変わって見えてくる。そこが気になって仕方が無く、内容に集中できなくなってしまった。それはそれとしてこういった書き方は、この著者の本領発揮というか、凄いところだ。リスペクタブルである。

しかし、

私は千絵ちゃんの味覚そのものになって、千絵ちゃんの舌の上でほぐれる茄子の実にもなって、皮を引き剥がされ、上顎に押し付けられて、舌先でくずされていく。やがて千々に噛み砕かれて、喉を通ってその奥へとすべり落ちていく。

 である。やっぱり危ないやつじゃないか!この先、何か破滅的な事件が起こったり、突然この物語がサイコホラーの様相を呈してくる可能性もある。不穏だ。それは冗談にしても、この人物がこのような思考を生きていることを忘れないでおこう、ふむ。

長くなってきたからひとまずここまでで一区切りにしよう。残りは読んだら。

中断