日記

午前10時に起床。洗濯物を済ませて、インターネットを眺めているとそのまま一日が終わってしまいそうになる。何とか外出し電車に乗った。新宿駅で乗り換え山手線で池袋方面へ。目の前の座席には眠気のために上体を左右に大きく揺らせている人がいた。トマス・ウルフ『天使よ故郷を見よ』、講談社文芸文庫から改訂再販版(というので合っているだろうか)が出ていたのだ。何年も前から読みたいと思っていたもので、昨日書店で見つけたときには目を疑い、値段の高さには目玉が飛び出た。文庫で2100円とは。本を開き目の前のメトロノーム氏を眺めていると駒込駅に着いた。

kayokoyukiにて映像作家2名の展示上映を見る。ドイツ人学生へのインタビュー映像に、作家の実家らしき映像が重なる。学生は自身の作品について解説している。2人の兄弟。コミュニケーションの問題。実家の庭では作家の母親が植物に水やりをしている。作品のコンテクストに関してまったく無知であるため、私の見方は限られたもの、素朴なものにならざるを得ない。作者の鈴木光はベルリン在住とのこと。重なり合う2つの映像はお互い何の関係も無いように見える。実は関係はあるのかもしれないが、私にはそれは見えないので、私にはそう見える2つの映像の関係の無さが、この隔たりが唯一の実感だった。何て遠いところにいるんだろう。彼は故郷からはなれて、別の言語で話し、あの場所で家族には理解できないような話しをしながら、2つの映像の間に立っている。

あらら、ポエムになっちゃったよ。

映像には続きがあり、作家は織物工場に向かう。織機が動く。単に機械が動いているというよりも、機械自身のフレームごと振動しながら動く。この映像には、ただ見ているだけで楽しい視覚的な快感がある。ちょっとしたリズムのズレを含んだループパターンのように織機は動く。そしてその中で職工だけが(そしてそこで作られる織物自体が)ループパターンの外部へとはみ出ていくように見える。そしてこれはもう1人の映像作家、斎藤玲児の作品の印象ともつながるのだが、この職工の動作が一瞬ホラー映画の幽霊の動きのように、その場にあってはならない動きのように異様なものに見える。そんな瞬間がある。

鈴木光の映像作品のもう1つについては、ギャラリーのエキシビジョン案内ページにちょっとした解説があり、これは私には意味不明だったので、こちらに関しては私は黙る。

斎藤玲児の映像作品は、空調の音のようなサウンドが不穏に流れる中、生活の断片と思われるような切れ切れの映像が流れる。これがどうしてもホラー映像、心霊動画にみえてしまい非常に面白かった。突然画面の一点がアップになり、ピントがぼやける。カーテンの向こうの草むら、耳の穴、シャワー、浴槽の給湯口。ある場所が突然フォーカスされ、しかしそこには何の変哲も無いものがあるだけだったり、または何も無かったりする。この何も無さがかえってその場所に見えない何かがあることを示しているようで怖い。たまに笑い声が聞こえたりする瞬間もあり、見ていると呪われそうになる。この見方が妥当なものかどうか、まったく見当違いかもしれない。しかしもしそうなら、他の人にとっては恐ろしいものではなく、私にとってのみ恐ろしい映像に見えているとしたら、そのこと自体も恐ろしいのだし、結局のところこれは怖い。とはいえ不穏なサウンドが流れていれば遊園地の映像でも不気味なものに見えるものだ。その点このような見方は作品の価値を不当に貶めているともいえる。つまり、恐ろしげな映像に見えるということしか受け取れないのであれば、この作品が、おどろおどろしいサウンドに適当な映像を貼り付けただけの動画となんら変わらないことになってしまう。これは私の見方が悪い、あるいは弱い。別の見方が必要である。

しばらく映像を見てすごした後、本当はユーロスペースで『裁き』を見たかったのだけど、開始時間に間に合わないので六本木へ向かう。新宿経由で行くつもりが反対方向に乗ってしまい、日暮里で京浜東北線に乗り換え、有楽町から日比谷線日比谷駅へ。

そういえば駒込セブンイレブンでおにぎりを買って食べたのだった。道端で食べていると鳩が飛んできた。鳩が私の近くを歩きながら、こちらの顔を覗き込む。餌がもらえないかと近づいてきたのだ。鳥に見つめられるというのは始めての事だった。食事をとっている人間をはっきりと認識して、「おまえだ」と指差しされたような感覚。他の動物たちも、個別の認知能力を持って、周囲の環境を解釈しながら存在しているのだ。その事が恐ろしかった。

そして六本木に到着。今度は森美術館で「サンシャワー展」を見た。アジア各国のプロジェクトをご紹介という感じ。美術鑑賞というよりも社会科見学のような気分になってしまい、面白いものもあったのだけど、軽く流して終わりにしてしまった。