遠景画としての「バベルの塔」

今更ではあるものの、ブリューゲルバベルの塔」展について。
初期フランドル派やヒエロニムス・ボス、ブリューゲルの絵画を何点もみた。それらの絵画に描かれた遠景に最も惹かれた。絵の中心には人物が描かれ、その人物のいる建物の隙間から遠くの景色が見える。そこに小さく描かれた家や人。これらのものを見るとき、目は、あるいは脳は近景にあるものを見るときとは違った働きをする。これは間違っているかもしれないが、感覚的には近景と遠景は別の見え方をする。遠景にあるものを見ることは出来ない。私たちは遠景にあるものを眺める。そうでない場合は発見する。画面の中心の人物たちは、発見するまでも無くそこにいる。遠くの彼らは、鑑賞者が発見するまで、それが人だと気づくまでは人ではなく、発見された瞬間に人へと変化する。そのスイッチの瞬間、人があらわれ、建物があらわれ、絵画のシチュエーションがかすかに揺らぐ。ボスやブリューゲルの絵画の中に、大勢の人物や異形の生物が大量にかかれたものがあった。それら個々の生き物を認識した瞬間と似ているのだが少し違う。ウォーリーを発見した瞬間の感覚が、この2つの感覚の中間点という印象だ。そしてバベルの塔。遠景画(というものがあるとして、だが)としてのバベルの塔。遠くにあって近いバベルの塔はそのままではただの巨大な塔の絵だが、個々の人々や様々な細部を発見するごとに、状況が少しずつ変化する。見出された人々はその瞬間から生き始め、塔の建設を続行し始める。決して視認することは出来ないが、少しずつ塔は形を変え、高さを増してゆく。塔の高さはこれら細部との比較によってしか実感されえない。