メモ

行った事も無く、それまで知りもしなかった土地の事であるからこそ、いい加減なことは書けないとも言えるし、知らないからこそ、その「知らない私」の場所から見えたまま感じたままに書く方が良いとも言える。私は考えた。どちらがより誠実だろうか。あるいはどちらも。どちらにせよ「私において書く」という点では違いはない。つまり「調べた上で書く」にせよ「調べずに書く」にせよ、それを選択した「私」がシステム(この場合「執筆」というシステム)の中にある位置を占めてしまう。そして最終的な成果物は、ある特定のパースペクティブを表現してしまうことを避けられず、それは別の視点から見た場合には偏ったもの、間違ったもの、不誠実なものと見なされる。対象を正しく記述することは出来ない。

いくつかの対処方法が考えられる。それらは単なる方便に過ぎなかったり、一時しのぎであったり、仮定された最善策の代替案でしかなかったりするかもしれない。「私」は存在しないと言い張ること、対象から遠ざかること、事実だけを記述すること、複数人で取り組むこと。

「私は演奏者に過ぎない」
仮にその通りだとしても、あなたの体が関与している以上、その体があなたの居場所を指し示してしまうことを回避できない。

「これは音楽ではない」
ひとまずそう主張しておき、何らかの迂回路を通って「これは音楽だ」という結論に達しないことには、それは「論外」だし、それを達成した場合に、あなたはスタート地点から1歩も動いていないことになりはしないか。

「機械のように正確に演奏する」
これは1つ目のバリエーションでしかなかったかもしれない。そしてあなたは「あらゆる機械」ではなく「ある機械」である点で、人間であった場合と何も変わらない。

「私たちそれぞれの解釈で合奏する」
それが1つの曲に聞こえるなら失敗している。それが複数の曲に聞こえるなら、個々の曲が、それぞれ失敗する。もはや曲に聞こえないのであれば、失敗している。

したがって「何か他の方法」が必要なのだが、それは常に「何か他の」ものであるため到達不可能だ。
最終的には失敗への可能性だけが残ることになるのかもしれない。私が選ばなかった全てへの可能性。