アニメーション作家、久野瑶子の漫画単行本が7月24日にするようで楽しみ。
何年か前にCuucheの『Airy Me』のMVで話題になった方で、アニメーションも良いのだが、この人の描く動物なのかぬいぐるみなのかわからない生き物の絵が良い。

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なぜだか、かわいそうな生き物という感じがする。というかそのフレーズが頭に浮かぶ。とってもかわいそう。
「Airy Me」のMVを見ていると、何か思い出しそうで思い出せないような感覚がいつもあるのだけど、ようやくひとつ思い出したのが、湯浅政明監督のアニメ『カイバ』。記憶を人の頭から取り出したり、注入したりできる世界のお話。スポイトで取り出した記憶はオイルタイマーの色ついた油みたいで、しっかり保存しておかないとふわふわ飛んでいってしまう。こんなやつ。

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看護婦が注射を打つシーンの手の書き方、動きとか『カイバ』のオープニング中の、手をつなぐところの表現に近いものがあると思うのだけど。

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そしてこの物語の登場人物たちも、人間とぬいぐるみの中間みたいに見えたりして、やっぱりかわいそうな生き物、と思う。記憶を抜き取られたりするところとかかわいそう。

湯浅監督といえば『夜明け告げるルーのうた』も良かった。ルーが歌いだすと周りの人たちの体が勝手に踊りだしてミュージカルになるのだ。
歌が流れると世界そのものが「ミュージカルワールド」みたいになって、誰も彼もが歌い踊る。それはあるシーンを「ミュージカルの形式」で表現しているということではなくて、その作品の世界では、人が突然歌ったり踊ったりすることが実際にありえて、登場人物たちもそのことをおかしいとは思っていないということだと、そう考えたい。「映画的にはこの人たちは歌ったり踊っているように見えますが、本当はそんなことしていないんですよ」というのではなくて、彼らは実際にその時その場所で歌い踊ったのだという事。そこがミュージカルのファンタスティックな所だと思っている。歌と踊りが世界を作り変える。

唐突に『ラ・ラ・ランド』について、
そんなミュージカル観で見ていたために、この映画をミュージカルの魔法を葬りさろうとする映画だと思ってしまった。これはちょっと悪意ある見方だと思うし、間違っていると言われれば、その意見に賛成。

映画を通してミュージカルの「歌と踊りが世界を作り変える」力が弱まり続けていく。
まず最初のミュージカルシーン。大規模なフラッシュモブのように見えるシーンで、1カットで撮影されたそれは、本当にすごい。人物たちも突然歌いだし踊りだすのだけれど、シーンの最後、カメラが遠景を映し出すと、そこにはいつもどおりに走り続ける車の列。あそこにはミュージカルの影響が及んでいない。

だんだん人数が減っていく。次に歌と踊りが始まると、歌い踊る人物はミアとルームメイトの4名。その次はミアとセブの2名。
そしてオーディションシーンでは、ミアが歌いだすと周囲が暗くなって審査員たちが消えていなくなる。つまり現実にはミアは歌ってなどおらず、実際にはおそらく審査員たちに普通に話をしている。歌っているのはミアの心象風景であって、もはや登場人物たちは突然歌いだしたり、踊りだしたりはしない。
そして最後のミュージカルシーンでは、あらかじめ周囲の人々が消え去った上で、歌と踊りは空想の世界へと追いやられる。そこでミュージカルは映画内の「現実」だけでなく「現在」との繋がりすら断たれ、思い出の中で歌や踊りが繰り広げられる。その思いではミアとセブの思い出というだけではなく、ミュージカルそのものの思い出でもあり、走馬灯のように数々のミュージカル映画のシーンが現れる。それらは現実とは何のつながりも無い想像上のものに過ぎず、登場人物たちには何の影響も与えずに消えてなくなる。ミュージカルは死んだ。そしてその後に残るのはオーセンティックなジャズだけだ。1、2、3、4。セブがカウントを取るとまたジャズの演奏が始まり、それは映画のラストシーンの向こうまで続いていく。

丁寧なことに映画の中ほどで「ジャズは未来だ」と言ったキースの音楽を否定的に描くことで、新たな表現に広がっていこうとするタイプのジャズをもミュージカルもろとも葬り去ろうとしている。