ダンスイベントを見た、映画のチケットは売り切れてた。

16日の事だった。今日『クレマスター』のチケット発売日だ。東京都写真美術館で11月に上映されるやつ。と思い出して予約ページにアクセスするも、すでに全席販売終了。朝9時の販売開始から1時間で全て売り切れたらしい。うっかり発売日を忘れるようではチケットを買えなくて当然、という事のようだった。そもそもマシュー・バーニーの事よく知らないし、これで良かったんだ。全5作を2日間に渡って全て上映する「クレマスター・サイクル」と呼ばれるこの催しを心待ちにしていた人たちが数百人はいて、その人たちは9時の販売開始からLivePocketのページにアクセスし、会員登録を済ませていなかった人は急いで登録をし、どんどん予約が埋まっていく中で、ある人は望みどおりの席を確保し、ほんのわずかな差でチケットを購入できなかった人たちがいた。そのようなドラマが、それぞれ交わることなく繰り広げられたその時に、私は布団の中で眠っていて、それもある意味でこの離散的ドラマの全体の中のささやかな一部となっている、という事。この事にほんのわずかではあるけれど満足感がある。あるひとつの群像劇に、登場する事の無い登場人物。

そして15日の夜は関内のthe Caveにて、アートフェス「黄金町バザール」における開催イベントのひとつ「ダイバーシティ・キキ・ボール」を観ていた。ダンサーのサン・ピッタヤー・ペーファンによるヴォーグダンスのワークショップに参加した人たち、ダンサーたち、黄金町バザールの参加アーティスト、外国からの観光客といった様々な人たちがレッドカーペットの上で踊ったり歩いたりしたのだった。参加していたダンサーもいろいろで、ヴォーグダンスをメインに踊っている(のかどうか実際のところ分からないけど)人たちのダンスバトルは本当に見応えがあった。目の前で様々なDipを見ることが出来て本当に良かった。ある時はストンと地面に落ちるように、あるいはなだらかな動きで横たわり、体が美しい曲線を描いてポーズしたり、その時足が宙に向かってスッと伸びていたり。80年代を思わせるようなファッションの外国人の方たちが、ダンサーたちのDipの瞬間に手を前に振り下ろすあの動作をしていて、分かっている感じなのが良かった。でもその同じ人たちがランウェイという競技カテゴリー――ファッションショーのように歩き、ポーズ、ターンのみが許可されていて、ダンスしては駄目なルール――の予選に飛び入り参加してガンガン踊っていたのはどういうわけだったのか、それで他の参加者たちも踊っちゃうし、審査員たちもそれにはうんざりという感じで、それは真面目に日本でのボールルームシーンをこれから作っていこうと頑張っている彼女たちにしてみれば当然の事だ。予選後のバトルが始まる前にピッタヤーがランウェイの手本を見せてくれて、さすがに素晴らしくカッコよくて、それが見れたのはある意味ラッキーだった。最後の表彰式で各カテゴリーの優勝者のほかに、ピッタヤーが新たに作ったファミリー「House of Budda」のメンバーからも優勝者を特別に一人選んでいた。多分ワークショップに参加した人たちのために作ったファミリーなのだろう、ダンスを通じて知り合って、それでみんなひとつのファミリーになるというのはとても素敵な事だった。その他にもたくさんの素敵なものを見ることができた。イベント開催前の時間、何度もダンスの練習をしていた小さい女の子たち、Sex Sirenというカテゴリーで煌びやかな衣装を身にまとって、セクシーなダンスを見せてくれた人たち、飛び入り参加でイベントを盛り上げた人たち。

本を作って1冊も売れないという事

ふと、何か本を作ってそれを即売会(コミケとか文学フリマとかzineのイベントとか)で販売する事を想像した。駅に向かう道の途中、交差点で信号待ちをしているときに。そのすぐ後で頭に浮かんだのは、一人でイベントに参加して7時間ぐらい椅子に座り続けた挙句、1冊も本が売れず、目の前のテーブルに積み重なった自分の本を眺めながら、泣き出しそうになるのをこらえている自分の姿。

何人かの人は本を手に取ってくれた。表紙を眺めただけで、テーブルに戻してしまった人や、パラパラと眺めた後で、微笑みなのか苦笑いなのかちょっと判別が難しい表情をして立ち去った人。隣のブースにはどこかの大学の人たち。準備の時に「よろしくお願いします」と声をかけられたのだけど、とっさのことでうまく言葉が出ず「あっ、へえ」と返事なのかため息の一種なのかと言うような半端な反応になってしまい、それきり一言も会話を交わしていない。話し始めたりするタイミングを逃してしまった。彼らはすでに何度も参加しているのか、留守番を交代しながら出かけて行ったり、どこからか知り合いを連れてきて互いに挨拶を交わしたりしていた。周囲の会話は、ホール全体を覆って反響し合う様々なサウンドと溶け合って、どこか遠くで響いているようで、私の周りだけ音のない真空地帯のようになっていると、その時は感じられたのだった。大勢の人たちが目の前を通り過ぎて行くのを、ぼんやりと眺めた。ふと、これらのイベントにただの来場者としてやってきて、ブースの間を歩き回っていた時の事を思い出した。そうだった、私もこんな風に、椅子に座って待機の時間を過ごす人たちの前を何度も素通りした。今更、彼ら彼女らの作品を手にとって読んでみたい気持ちになる。そして、声をかけるのだ「これ1冊ください」。それだけで良い。

朝、会場に持ってきた分とちょうど同じだけの本をキャリーバッグに詰めなおす。私はこの本たちに対して悪い事をした、かわいそうな事をした、という気持ちになるのだが、その一方でこの本たちのほうこそが、私に対してかわいそうという気持ちを抱いてくれないものか、慰めてくれないだろうかと期待してもいた。

そんな事を想像していたのだけれど、実際のところどうなのだろうか。ああいうところに参加した人たちは例えば、誰も買ってくれる人がいなかったりしても、隣のブースの人とちょこっと交流がてら作った本を交換したりだとかするものなのだろうか。もしかしたら即売会のイベントに参加して1冊も売れないというような事は、ざらにあることだったりするのかもしれない。みんな通ってきた道というか。

宇宙人が侵略してくる映画を観て

地球に宇宙人が侵略してきたとして、そいつらが人類を抹殺しようとするとは限らない。例えば彼らから見たときに人類と他の地球上の生物たちは、わざわざ区別する必要がないくらい等しく下等な生物たちと見えるかもしれない。彼らが植物と動物を違ったものとして扱うかどうかもわからない。

地球上のどこかに居住しようとした宇宙人が、人類のことなど全くお構いなしに、好き勝手に住居をつくり生活し始める。家を建てるとき、もしそこに邪魔な木があれば、それを取り除く、という程度の感覚でそこにいる人や動物や建物を除いたりするが、そこに攻撃の意図は全くない。もし彼らに目や耳や口が無かったら?彼らがコミュニケーション能力というものを持たなかったら。彼らが、意識や生命というものを持たず、惑星間を行き来する事ができるほどの技術がそこから創発した、複雑に洗練されたシステムのプロセスとして存在する何らかの物質、としか言いようのない物だったら。

例えば犬が数万年前に地球にやってきた宇宙人だったとしたら?地球上で生活し始めるにあたって、狼のバリエーションとしての肉体を選択し、さらに自らの存在を人類の生活の中に組み込む事で生存することを選択した宇宙人。それが私たちが「犬」とみなしている生き物だったとしたら。ある日突然、世界中に住むその宇宙人たちの末裔が地球と人類に見切りをつけて、他の惑星に旅立ったなら。

それはどうでも良いけど『散歩する侵略者』を観てきた。始まって間もなくの場面。血まみれの女子高生がこちらに歩いてくる。肩を何というか気持ち悪く動かしている。クラクション。トラックと乗用車がクラッシュする。この場面がこの映画中ずば抜けてかっこいい。松田龍平はもう何だか観てて安心感がある。というのはどういうことかよく分からないけれど、彼は自分の演じる役にいつでもちゃんとハマる。というのはどういうことか、いったい私は何を言っているのかよくわからない。それから、長澤まさみが黄色い車の中、運転しながら「期待して損した」とか何とかそんな事を喋っている場面の、そこの話し方が他の場面での話し方と違っていて、別の映画の?登場人物みたいになっていた、と感じた。そこのシーンがとても良かった。

ともかく映画の中の宇宙人というのは、これから先ますます人間とは違った思考のスタイルを持ったものとして洗練されていき、地球にやってきて、人類に分からない動機により、人類に理解できない行動をし、それを理解するために人類が四苦八苦したり、宇宙人たちの理解不能の行動の結果生じた事態への対応のために様々な人物が苦労する、という方向に向かうのかもしれない。そして、宇宙人もゾンビも幽霊もAIもみんなそんな感じなので、それらを区別する必要が無くなったり、それらが混ざったような「宇宙ゾンビ」とか「アンドロイド幽霊」みたいなものがそのうち生まれてきたりするのだろう。

9月9日の日記か

部屋から外に出る。13時前。今日は天気が良くて、明るい日差しが目に飛び込んで来ると、パッと気分が晴れる。


部屋から出てどこかに行く事ができる、というだけで少し達成感がある。

今日は図書館に、本のない図書館に行こうと思う。芸大附属図書館が引越しのため、今までの図書館から本が無くなり、空っぽの図書館でいくつかのイベントが開催されるとの事。


マウント・キンビーの新譜はだいぶロックっぽいなと思いながら、電車で移動。電車のように直線的なつくりの音楽。引き続き音楽を聴きながら本を読み、ふと顔を上げると小さい女の子が座席に膝立ちになって外の景色を見ているのが目に入る。そして先ほどこの音楽をロックっぽいと思ったのは全く見当違いなような気がして、それでも彼らは、自分たちでキーボードを叩いたりして演奏するということを大事にしているのだろうと考えた。山手線に乗り換えると、音楽はナット・キング・コール。この状況に似合っているとは言い難いけど。

博物館の深海展は90分待ち、看板を手にした人を見かけた。上野公園を抜けて、おそらく学生であろう人たちが雑貨やアクセサリーを販売する出店の間を抜けて、人がいっぱいでなかなかその場所を抜けられず、「なんてこった、いつまでたっても芸大にたどり着かない」

その後無事大学に着き、図書館に入った。新図書館に所蔵されず、処分する本を3冊、寄付金と引き換えに持って帰れる企画や、いくつかのサウンドインスタレーション、アートブックの展示。それらが2階で行われていた。お腹が空いて、人の多さに緊張もしたけれど、ビールを1杯飲んで少し落ち着く。

敷地内をフラフラし、絵画棟に入り、ぼんやりと絵を見て回る。展示がされている各教室の天井はどこも数台の扇風機が設置されている。そこら中に絵の具が付いた床。掃除用具にも絵の具が点々と付いて、白っぽく水に濡れたようになっていた。階段を登る。特に絵を見たいと思っていたわけではなく、ただなんとなく入ったものの、途中で引き返すのももったいなくて、結局それぞれのフロアを少しずつ眺めながら、7階か8階まであったと思う、そこまで登って行った。日本画の人たちの作品は素人目にも綺麗で素朴に楽しめる。学年が上がるごとに、それぞれの絵の色調が、ある同一の落ち着きや静けさを伴ったものになってゆくように見えたのは、私の思い込みだろうか。それはある意味では日本画的な美しさとも見え、また同時に彼らの可能性の行き詰まりのようにも見えた。一方油彩には、ただ綺麗に描くだけという事が許されないかのような難しさがある。油彩画の抱えるコンプレックス。日本においてはそのコンプレックスにさらにツイストが加わり、なんとも言えない息苦しさを持つ。学生たちは毎日ここで絵を描いているのだろうか。勝手に他人の仕事場を探検しているような気分で、壁に設置されたネームプレートや実験排水用と書かれた流し台を、また窓から見える他の建物を眺めて過ごした。高校の制服を着た女の子が母親と腕を組んで絵を見てまわっていた。そんな親子を何人も見かけた。屋上に上がる扉には立ち入り禁止の張り紙がなかった。せめて鍵がかかっているかどうかだけでも確かめておけばよかったと今思う。

それから夜は映画を鑑賞し、その後日比谷公園オクトーバーフェストでビールを1杯だけ飲んだ。噴水広場にテントが張られ、そこで歌と踊り、酔っ払いたちのご機嫌な大騒ぎだった。オクトーバーフェスト参加者たちは誰も彼も笑顔で、酒は体には悪いがそれでも尚いくらか良いところはある。

先日観た映画『パターソン』の監督ジム・ジャームッシュは言わば映画で詩を書く詩人だし、『日曜日の友達』の阿部共実は漫画で詩を書く詩人(時々詩そのものみたいなモノローグやセリフもあるしね)なんだな、とふと思った。そうすると詩を書かない詩人は皆「挫折した詩人」なわけではなくて、それぞれの道具で詩を書いているだけとも言えるし、そもそも本人は別に詩人を目指したことなんてないのかもそれない。

チェコのカメラマン、ヨゼフ・スデックは「プラハの詩人」と言われたそうだし、わりと写真家は「詩人」に例えられる事が多いような気がする。というかカメラマンには詩人的なイメージがよく似合う。

それに比べると画家やイラストレーターはそれほど詩人っぽくはない。そのまま「画家」「イラストレーター」という感じ?あれかな、絵を描く人は描く時にわりと体を動かすから、そのアクティブな感じがあれなのかな。勝手なイメージなのでそれでどうという事ではないのだけど。

コインランドリーでラップする詩人、郵便局で働きながら受付に並ぶ人に自作の詩を聞かせようとする詩人、詩人になれないなら何者にもなりたくなかったはずなのに著名な小説家になった詩人、アフリカに行った詩人、シンガーソングライターなのになぜかノーベル文学賞を受賞した詩人。私は何が言いたいのやら。

ベックの今度の新譜から先行配信されている曲たちが今のところ全部良いのでかなり期待している。過去の様々な音楽を連想させながら、ジャンルや時代の違う色々な曲をベックの歌声が縫うように通り過ぎてゆく。私はベックの熱心なリスナーではなかったけれども改めて凄いなと思う。今回のアルバム、今のところ一番好きなのは、

www.youtube.comイントロがエリオット・スミスっぽいところが好きなのだ。

あと、おとぼけビ~バ~というバンドのこのMVも凄く良かった。

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クラウス・メルツ『ヤーコプは眠っている』、ジム・ジャームッシュ『パターソン』

クラウス・メルツ『ヤーコプは眠っている』を読んだ。何だかとても感動してしまった。

その瞬間、私は父の言葉の向こうに若い二人のシルエットが光り輝くのを見た。

そしてこの物語の中で語り手が回想する過去の思い出から、読者は彼らの家族、「太陽」と呼ばれた水頭症の弟、勘当されてアラスカに行き、飛行機事故で亡くなったフランツおじさん、パン屋を営みのちには電気の検針?のような仕事をすることになった父、思い鬱病を患った母、といった人物たちのシルエットが浮かび上がるのを見る。

それらの姿はシルエットであるゆえに、読者は彼らの顔や姿をはっきりと思い浮かべることができない。全ては過ぎ去ってしまい、彼の家族は今ではもう誰も残っていない。その輪郭しか見えない人物や彼らの故郷の風景、それをはっきりと目にしたい、そんな欲望、あるいは願いを抱きながら読み進める。しかしそれを見ることは叶わず、ここには接近不能な物語が、決して私のものにはならない物語があるだけだ。

最後は

それは私のものだ。

という一文で終わっている。まさしくこの物語は彼のものだ。


その後、新宿武蔵野館で『パターソン』。前の座席に座った人の頭がひょっこり突き出して、右に左に揺れていた。映画が始まると登場人物たちは英語を話し、私はその言葉の意味が分からない。字幕が出ている辺りでは頭部のシルエットがゆらゆらしていた。私はすっかりイライラしてしまって、映画の印象もそのイライラで歪んでしまった。いたるところに出現する双子。パターソンとパターソンとパターソン。詩を書き溜めたノートとそのコピー。パターソンの奥さんは、家中をモノクロのパターンで埋め尽くしてゆく。彼女のカップケーキのように。奥さんはモノクロ映画の女優と似ている。チェスの駒。パターソンはガレージのついた一軒家に住み、車を持ち、ブルドックを飼っていて餌代がかさむ。奥さんは働いていないように見える。彼は毎日犬の散歩がてら行きつけのバーに行き、ビールを飲む。200か300ドルのギターを買う事を渋るような生活だろうか。葬式帰りのような格好の日本人があらわれる。何が「アーハ」なんだ。映画の中で3人の詩人が登場する。日本人旅行者、コインランドリーのラッパー、10歳くらいの女の子。彼らはみな自分のことを「詩人」という。パターソンは「あなたも詩人ですか」という問いかけに「違う」と答える。彼はドライバーだ。ドライバーのドライバー。彼のノートブックはズタボロになった。というか犬は彼のノートだけをズタボロにした。恋人に振られた黒人の男の子もズタボロだった。もしかしたらバーのマスターもチェスの大会の後、ズタボロにされたかもしれない。そんな映画を字幕が見えない不快感を下敷きにしながら観た。だから私はこの映画を見ている間、一瞬だって幸せでなかった。新宿武蔵野館には二度と行かない。

 

快復してきた

朝まで酒を飲み、そのせいで翌日は何も出来ずに終わる。二日酔いと後悔でベッドから出られなくなるし、それでようやく外に出たのが18時頃。前日のアルコールが抜けて体が元に戻っていくとき、酔いの高揚感が消えてゆく反動か、とても気分が落ち込む。この落ち込みに昨日の自身の馬鹿げた発言の記憶が重なって、ますますつらい。胸がスッと冷たくなり、背中が熱くじわりと汗が出るのを感じる。ふいにアルコール依存症になる人の気持ちが理解できると感じる。この不安感や気分の落ち込みから逃れるために、体内にアルコールをめぐらせ続ける必要があるのだ。それはアルコールを求めての事ではなく、アルコールが切れた状態への恐怖から。「あれをまた経験するくらいなら○○の方がましだ」このフレーズから様々な不適応があらわれる。究極的には、死ぬより恐ろしい事から逃れるために、死を選ぶ、という事が積極的に選択される。誰かがこの状況を耐えられるものにしてくれなければ、誰かが「Hold On」と声をかけてくれて、私を捕まえてくれていなければいけない。

そしてそれら全ては昨日の事になった。私は今快復期にいるといって良いはずだ。まだ胸が少し冷たいけれど、次第によくなるという希望が持てるようになってきた。今日は映画を観るか美術館に行くか、お祭りを見に行くか、何かしら出来るだろう。映画なら『パターソン』か『ベイビードライバー』、来週は『ダンケルク』『散歩する侵略者』が公開になるのか。そして11月に上映される『クレマスター』全5作は何としても観に行きたい。

『パリに終わりはこない』大勢の有名人たち、作家や俳優、映画監督、詩人その他もろもろの名前が散りばめられ、コラージュ的な感覚のある作品だった。私は結局「アイロニー」というものの事がよく分からない。登場人物たちの中でもとりわけ魅力的で印象に残っているのは、大勢の有名人たちではなく、Googleで検索しても名前が(少なくともカタカナで調べると)引っかからない何人かの人物たちだ。
語り手の質問に対して、的確な助言というか啓示のような言葉を与えてくれる《書く事を拒否している洗練された知識人で、真の作家であり、七〇年代にマルグリット・デュラスのまわりにいた取り巻き連の中でもっとも聡明な人物》ラウル・エスカーリ。『本物の模造品』のヴィッキー・バポル。『ヴィッキー・バポルはカルチェ・ラタンでもっとも美しい服装倒錯者で、しかもトルーマン・カポーティーの『ティファニーで朝食を』に登場するホリー・ゴライトリーにそっくりだった』。ボヘミアンのブーヴィエ。決して完成しない本を作るため、大勢の学生(のふりをする失業者たち)を雇ったトマル・モル。『彼はついにカフェ・ド・フロールのひとつの協会そのものになった』。

『アドルフォ・アリエータアンダーグラウンド映画『タム・タム』』のキャストに、ハビエル・グランデスエンリケ・ビラ=マタスの名前がのっている。

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夜は阿部共実『月曜日の友達』1巻を読んだ。いつの間にか秋田書店から小学館に移籍してるし。今回は割とまっすぐにボーイミーツガール、この場合ガールミーツボーイか?青春映画みたいな作品で彼女たちの目に映る景色や相手の姿に、澄んで透明な爽やかさがある。しかし「生まれてはじめて、友達ができたよ」の所とかは甘すぎる、トゥースイートというか、ではないだろうか。水玉が飛び交い満面の笑顔の子供たち、そして力強い言葉がある。「真夏なのに静電気がはじけた。ぱちんって音がした」とかクソ強い。